2015年6月20日 (土)

クラウドクラスター(Multicell cluster)

 火山噴火とか地震とか、いろいろ続いているが、九州の方では大雨の被害も出ているようだ。このブロブでも大雨の話題は過去に何回か取り上げている。例えば、去年の広島の土砂崩れの際には「バックビルディング現象」について取り上げた。

 そんなこともあり、大雨のことを少し気にしながらニュースを見ていたら、今回の九州の大雨の原因として「クラウドクラスター」という言葉がよく出てきたように思う。そこで、この「クラウドクラスター」について、少し調べてみた。

 まず、検索してみると、気象衛星センターのサイトに、衛星画像の特徴的パターンの一つとして「クラウドクラスター (Cloud cluster)」について説明されていた。

 そこには「積乱雲(Cb: Cumulonimbus)は、それらが集合して巨大な塊を形成することがあります。この塊を「クラウドクラスター」(Cloud cluster)あるいは「Cbクラスター」(Cb cluster)と呼びます。」「クラウドクラスターは様々なサイズや発達段階の対流雲で構成されており、水平スケールは数百キロメートルにも達します。」と書かれていた。

 去年の広島の土砂崩れの際のバックビルディング現象は、連続して同じような場所に積乱雲が発生して豪雨をもたらす、というものだったが、「クラウドクラスター」は、数百キロもの大きさの積乱雲が押し寄せてくるため、大雨・豪雨が広範囲にわたる、という特徴がある感じだ。

 ところで、こういう言葉を調べるときは、いつも英語の方でも検索してみることにしているので、次に英語で「cloud cluster」と検索してみた。

 すると、英語のサイトで現れたのは「Cloud computing」とか、コンピュータの「クラウド」に関する話ばかりで、気象に関する話題は見当たらない。この手のことを調べると、よくあることだが、積乱雲の巨大な塊のことは英語では「Cloud claster(クラウドクラスター)」とは呼ばないらしい。この言葉は日本人が勝手に作ったものなのだろうか。

 こうなると、じゃあ「積乱雲の巨大な塊」のことを英語で何というのか、気になる。そう思って、もう少し調べてみると、Wikipediaの「雷雨・雷雨の種類と強度」という項目を見つけることができた。

 そこには「マルチセルクラスター(Multicell cluster)」という言葉が載っていて「積乱雲の集団の中に成長段階の異なる複数のセルがあり、新旧交代が繰り返される。鉄砲水、大きめの雹、弱い竜巻が発生する恐れがある。クラウドクラスターとも言う。熱帯低気圧がこの典型。」と説明されている。

 要するに、日本人が言う「クラウドクラスター」というものは「マルチセルクラスター」の別名のようだ。一方、英語版のWikipediaには「Thunderstorm・Multicell clusters(マルチセルクラスター)」という項目があった。ただ、そこを読んでみたが、残念ながら英語では日本語のような別名は書かれていなかった。

 なんだか、最初は大雨で気になって調べ始めたのだが、だんだん大雨のことよりも、実は英語ではクラウドクラスターとは言わない、ということの方が気になってしまった。

 英語では「マルチセルクラスター」と呼ばれていることがわかったので、今回のブログのタイトルのところに正しく「Multicell cluster」といれておいた。

 今年も全国でゲリラ豪雨とかが多発しそうな予感もするので、今後も大雨に関する話題をブログでとりあげることになりそうだ。

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2013年12月22日 (日)

Anger Management(6秒待つ?)

 今年もあと10日をきり、日本の学校の多くはそろそろ冬休みに入る頃だろうか。ブログではあまりとりあげなかったが、今年も学校に関する話題やニュースがたくさんあった。その中でも大きなものの1つが教育現場での体罰の問題であった。

 大阪・桜宮高校のバスケットボール部で体罰による指導を受けた生徒が自殺した事件が起きたのは、今からちょうど1年前になる。具体的には、2012年12月22日に体罰による指導を受け、その翌日に事件がが起きた。

 それ以来、体罰による指導の是非を含め、学校での指導のあり方が様々なところで議論されている。そんな中、先週の朝日新聞に「6秒待って体罰防ごう」という記事が載っているを見つけた。

 その記事によると「カッとなったとき、反射的にたたいたり、暴言を吐いたりしないで、6秒待つ。すると冷静になって、本当に伝えたい言葉が出てくる」と書いてある。

 さらに、その後を読むと、これは「アンガーマネジメント(怒りのコントロール)」と呼ばれる米国生まれの手法だ、と書かれていた。私の不勉強で、始めて見る言葉だったが、何故「6秒」なのか、ということが気になったので少し調べてみることにした。

 米国生まれのものと書かれていたこともあるので、こういうときには日本語で調べずに英語で調べるに限る。実際、インターネットで調べると、Wikipediaに「Anger management」の項目があるのをすぐに見つけることができた。ちなみに、今日の段階では、日本語のWikipediaにはアンガーマネジメントのページは見当たらないようだ。

 Wikipediaのページには「Anger management is training for temper control and is the skill of remaining calm.」と書かれていた。直訳すると「アンガーマネジメントとは、気分をコントロールするためにトレーニングで、平穏を保つためのスキルのことである。」ということになるだろうか。

 また、そこには「An anger management course」と題して、アンガーマネジメントのセミナーの様子を写した写真が掲載されていた。これは、米国海軍の兵士への講義の写真のようで、パブリックドメインの画像らしいので、このブログにも載せておくことにしたい。

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 さらに調べて行くと、今度はアメリカ海軍の「NAVY and MARINE CORPS PUBLIC HEALTH CENTER」の中にある「ANGER MANAGEMENT」のページを見つけることができた。

 その中の「Anger control and management tip 3: Learn ways to cool down」に怒りをしずめるための方法が、例えば「Take some deep breaths.(何回か深呼吸)」「Stretch or massage areas of tension.(緊張しているところのストレッチやマッサージ)」「Slowly count to ten.(ゆっくり10数える)」などと簡単に書かれていた。

 要するに、「落ち着け」ということのようだ。別に、大したことではなさそうだが、いざ怒りが出たときに落ち着くためには、こうする必要があるということは理解できる。また、このページには、怒りをしずめる方法だけでなく、様々な情報が載っていたが、結局どこを探しても「6秒待って」ということが具体的に書かれていなかった。

 他にもいろいろ調べてみたが、結局、今回は、何故「6秒」なのか、という点を知ることはできなかった。というか、アメリカ海軍のところだと「Slowly count to ten.(ゆっくり10数える)」と書かれていたし、別に6秒じゃなくても、要するに「少し待って落ち着け」ということが理解できていればいいことがわかった。

 それを、ある人が、「6秒」は怒りの衝動が収まる時間の目安、と言っているだけで、新聞記事のタイトルにしてしまうのはどうかと思うが、学校現場に限らず、どういった場面でも「怒りが込み上げてきたときには、ちょっと間をあけて落ち着くのを待つ」ということに注意する、という教訓は実践できるかもしれない。

 ということで、今回は、体罰指導による自殺の事件からちょうど1年たったこともあり、体罰防ごう、と書かれた新聞記事について調べてみた。

 念のため、最後に一言付け加えておくと、落ち着いて考えても本当に怒るべきと判断した場合は、(体罰は当然ダメだが)しっかりとした口調で怒ることも必要だと個人的には考えている。

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2013年10月15日 (火)

「疲れ」を英語にすると

 やっぱり、ナンダカンダと忙しい毎日が続いている。以前の疲労も完全に抜けている訳でもなく、疲れた溜まる一方だ。そんなことを考えながらブログのネタを考えていたら、何となく「疲労を英語にするとなっていうんだろう?」ということがフッと気になってくる。

 以前は、こうやって単語を調べてブログの文章を書くことが結構多かったのだが,そういえば最近は機会が少ない。忙しくて言葉を調べようと思うゆとりがない感じだったが、今回は折角気になった単語があるので、久しぶりに単語を調べてみることにした。

 といっても、今回はMac OS X(オーエス・テン)に標準で付いている辞書アプリの和英辞典で簡単に調べてみる。「疲れ」という単語を調べてみると、冒頭のところや例文中に現れる単語が結構たくさんあることに気がつく。具体的には、「fatigue」「exhaustion」などの名詞や、「tired」「weary」といった形容詞あたりだろうか。

 日本語だと、「疲れてるから休んだ方がいい」と言っても疲れの状況や度合いなどは言葉からは読み取れない感じもあるが、英語だと単語の種類が多いようで、もうちょっと調べてみると、例えば形容詞だと

tired = (普通に)疲れた
weary = ひどく疲れた
exhausted = 極度に疲れた

などのように、疲れの状況や度合いによって言葉を使い分けられるようになっているようだ。何となく、日本語だと「疲れてる」と言っても、状況や度合いは周りが察してあげないといけないが、英語では疲れている本人が状況や度合いを単語で言い表す、ということだろうか。

 まあ、英語では言葉の違いで状況や度合いまで表現することができて曖昧さがない感じだが、日本人的には遠慮もあってなかなか「極度に疲れてる」とは言いにくいため、無理に過小な言葉を使うこともありうると思う。だから、英語のように状況や度合いまで含めて本人が言葉を使い分けなければならない言語だと、周りがその人の本当の疲労の度合いに気づかない、なんてことがあるかもしれない。

 その点、日本語は「疲れ」という言葉の意味に何となく曖昧さがあるようだが、言葉では読み取れない部分を察しながら、例えば『めったに「疲れた」と言わない人が「疲れた」と急に言い出したら...』とか『この人は、いつも口癖のように「疲れた」とばかり言っているが...』などという会話に隠れてる本当の疲れの状況や度合いを読み取っていく、という感じになるだろう。

 これは文化の違い等のあるだろうからなんとも言えないが、日本でも最近、過労死とか鬱などが問題になっていることを考えると、もしかしたら日本でも「疲れた」という一言では足りなくなってきている可能性も考えられる。遠慮がちな日本人にも言いやすく、しかも疲れの状況がある程度言葉から理解できるような単語が日本語にも必要なのかもしれない。

 ということで、今回は「疲れ」を意味する英単語を調べてみた。ただ、私も忙しくて疲れているため、辞書は開かずにパソコンに付属してる辞書アプリを使ってしまった。まあ、それだけでも、いろいろと考えさせられることがあったので、よしとしよう。

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2013年7月15日 (月)

「ふだん」を広辞苑で調べると

 世の中は3連休らしいのだが、気分的にはそれどころではない感じで過ごしている。ただ、今日は祝日で多少の気分転換はしておいた方がよさそうだし、明日からの暑い日々を夏バテせずに過ごして行くためにも生活のリズムを整えておきたいと思い、早朝にブラッと散歩してみた。

 まあ、天気が悪く小雨が降っていたものの、特に何も変わったことが無い普段通りの朝、という感じであった。といっても、普段の出勤の際には周りの風景などを見る余裕もそれほどないので、いつも通っている道でも新鮮さを感じることはできた。

 ところで、この「普段」という言葉。「いつもと変わりなく」という感じの意味だと思うが、別に気兼ねなく気楽な感じで過ごしているときなどに「普段通り」というように、何となくリラックスして気軽に使う言葉だとは思っている。

 しかし、そうやって何の気なしに使っている「普段」という言葉の意味を調べようと広辞苑などを開いてみると、少々違った印象を受ける。

 というのは、広辞苑(第六版)で「ふだん」という言葉があるページ(2462ページ)を開いてみるとわかるが、実は「普段」という項目は見あたらない。

 そのページにある「ふだん」は「不断」という単語だけである。その意味を引用すると

「(1) 絶えないこと。絶え間の無いこと。」

と、かなり固いイメージなのだが、この言葉の意味の2番目に

「(2)(「普段」とも書く)平生。平常。」

と書かれている。私の手元にある他の辞書だと、例えば大辞林では、項目はあるものの「普段⇒ふだん(不断)」と書かれているだけ。変わって、「不断」の項目の2番目に

「(現代では多く「普段」と当てて書かれる)いつもその状態であること。日頃。」

と記載されている。要するに、いつも気軽に使っている「普段」という言葉は、実は単なる当て字で、実際には「不断」という固いイメージの単語を使うのが正しい、ということのようだ。

 確かに、辞書を見た後に「いつもと同じ」という状況について改めて見直してみると、「(どんなことがあっても)いつもその状態であること」というのは結構すごいことなんだな、という気がしてくる。

 また、「平常」という意味で見てみると、例えば今は高校野球の都道府県予選が行われているが、野球の試合の中で「平常心」を保って普段通りに振る舞うことは容易なことではかもしれない。

 こうやって考えてみると、気楽な気分の時だけでなく、緊張を強いられるような場面などでも「いつもと同じ」という気持ちを持ち続けて「平常心」を保つ、というときに使う「ふだん」は、「不断」という言葉の方がふさわしい感じがしてくる。

 私は、たまに高校生などに「(緊張が強いられるようなところでの)平常心は(自分たちで)作るもの」とか「(たとえ何とかなる状況だったとしても)現状維持にも努力は必要」などと言ったりすることがあったりする。そんな話の中の「ふだん」というのも、どちらかといえば「不断」の方がいい気がしてくる。

 これから、夏に向けて個人個人で目標ややるべきことは違うかもしれないが、この夏に良い結果が出るように、あるいは充実した毎日が過ごせるようにするために、ここで「ふだん」という言葉の意味を改めて認識しておくといいかもしれない。

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2013年3月29日 (金)

「近い」「遠い」の意味

 今は年度の変わり目で、4月から新しい環境へ以降する準備をする時期。私自身は、特別に変化はないのだが、4月から違うところへ移る人は、今は結構慌ただしい時期だろう。

 そういう中で、例えば「これまで近いところはよかったのに、遠いところへ移るのは不安」といった気持ちになることはよくある。そんなことを考えていたら、ふと、そもそも「近い」とか「遠い」という言葉の意味を辞書で調べたことがないな、ということに気がついた。そんなこともあって、最近広辞苑を開く機会が減ってきていたのだが、久しぶりに広辞苑を開いてみることにした。

 広辞苑の「近い」「遠い」の項目にはいろいろな意味が並んでいるが、その基になると考えられる、各項目の最初に書かれている文章は次のようになっている。

「近い」... 距離のへだたりが小さい
「遠い」... 空間のへだたりが大きい

 「近い」と「遠い」は反義語だとは思うが、広辞苑では、近いは「距離」のへだたりなのに対して、遠いは「空間」のへだたりについて考えているところが微妙に異なる。

 何が違うのか。例えば、「距離」を広辞苑で調べると

1. へだたり
2. 2点を結ぶ線分の長さ

の2つが書かれている。この中で「近い」の意味で使われているのは2番目の「2点を結ぶ線分の長さ」と考えるのが妥当だろう。

 もう一つ、「空間」の方は、哲学や数学で使われる難しそうなものは除いて考えると、

1. 物体が存在しない、相当に広がりのある部分。空いている部分。

ということなので、今の場合は「空間=空いている部分」と捉えるのが妥当だと思う。

 そうすると、「近い=距離のへだたりが小さい」の方は「2つのものの間の長さが小さい」という具体的な意味なのに対して、「遠い=空間のへだたりが大きい」の方は「空いている部分が大きい」という、何とも漠然とした感じになっている、という点が、「近い」と「遠い」の意味の微妙な違い、ということになるだろう。

 何故、広辞苑でこうなっているのかはわからない。ただ、例えば最初にも書いた「これまで近いところはよかったのに、遠いところへ移るのは不安」という気持ちの「近い」「遠い」の意味としてピタリ一致しているようだ。

 要するに、「近いところはよかった」の「近い」は、ものや人、あるいは気持ち的な面まで含め、「2つのものの間」を考えているのに対して、「遠いところへ移るのは不安」というのは、今までの自分自身が知らない部分も含む「空いている部分」について考えている、ということである。

 ここまではわかった。次に「近い」「遠い」の意味を理解するために必要なのは、文章の最後にある「小さい」とか「大きい」とは何か、ということになるが、この点は理屈ではなく感覚的な問題になってくる。

 私自身は偉そうなことが言える立場ではないが、こういったときに大事なのは「遠い」の意味にあたる「空いている部分が大きい」の「大きい」という量を過大評価しすぎないことだと思っている。

 当然、自分自身が知らない「空いている部分」があるのは仕方がない。ただ、むやみに過大評価をして不安を増大させることがないようにするべきだと思う。また、そうやって考えれば、「近い」とか「遠い」という言葉の意味を冷静に捉えることができるような気もしてくる。

 ということで、今回は久しぶりに広辞苑を使っていろいろと調べてみた。こうやって広辞苑を見ると、「これまでより距離が離れる」ということだけで「遠い」と言ってしまうのは、必ずしも正しくはない気もしてくる。そんなことでも考えながら、この不安が残る中途半端な時期を乗り越えていけるといいかもしれない。

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2012年12月11日 (火)

Photovoltaics(太陽光発電・PV)

 先週の木曜日の新聞に「太陽電池、市場すみ分け」と題する記事が載っていた。それによると、先週「PVジャパン」という、太陽光発電に関する国内最大級の展示会が催された、と書かれている。

 さらに内容を読むと、「低価格で大型案件を狙う海外勢に対し、日本のメーカーは、形の工夫などキメの細かい設計などが必要な住宅用などの中小型に狙い」ということで、太陽光発電については、日本勢は信頼性やきめ細かい品揃えで中小型の市場を守り、大型案件を狙う安売り攻勢の海外勢とは直接対峙しない戦略のようだ。

 まあ、いろいろな意見があるかもしれないが、以前ブログに書いた「何故プラス思考になれないか?」のときとは異なり、新聞記事では「大型の太陽光発電所はコストが何より重視されるので、海外勢と競い合っても勝てない」と日本の劣勢を率直に認めた上で、自分たちの得意な部分は何としてでも死守しよう、という意気込みを感じることができるのが、私には好印象だと思える。

 ところで、「PV」とは、英語の「Photovoltaics」の略で日本語に訳すと「太陽光発電」。太陽エネルギーは、英語で「Solar energy」と直訳すればいいが、太陽光発電の方には Solar は入らない。この事実、正直なところ、私は今回調べて初めて知った。

 日本では、「太陽エネルギー」の話のときには何でも「ソーラー(solar)」と言っているような気がしていたので、「太陽光発電」の方もてっきり「solar 何とか」というのだと思っていたが違ったようだ。

 英語の「Photo-」は光に関する物理の用語などで使われているものだと思う。また、「voltaics」は「電圧」なので、「Photovoltaics」というのは「光により発生する電圧」と意味になるだろう。

 要するに、科学・技術の用語がそのまま使われている。日本では「太陽光発電」というと、環境問題などと絡めた話が多いような気がするが、世界的には「科学・技術」が優先ということなのだろうか。こんなところに世界との差を感じてしまうのは私だけだろうか。

 英単語を調べたついでに、wikipediaの方で、日本語の「太陽光発電」と英語の「Photovoltaics」を比べてみた。

 印象的なのは、それぞれの内容の違い。日本語の方は「長所・短所」「装置構成」「発電コスト」などの話が先に書かれていて、技術的な話は少ない感じがする。一方、英語の方は「Solar cells(太陽電池)」「Current developments(最近の開発・発展状況)」のような技術的な話が先で、「Advantages(長所)・Disadvantages(短所)」の話は最後。

 日本とアメリカのお国の事情の違いが反映されているのだろうが、日本語では「太陽光発電の導入のため」というユーザー視点なのに対し、英語では「太陽光発電の開発のため」という技術者や科学者の視点で書かれている印象を受ける。

 また、どうでもいいことかもしれないが、「装置構成」などに関しては、英語のwikipediaには「Photovoltaic system」という別の項目があり、かなり詳細に説明されているのも日本語の方と異なる点だ。

 私は別にアメリカの方がいいとは思っていない。ただ、ここまで差があると何か言いたくなってしまう。結局日本では、この手の技術的な話を「ユーザーの視点」で見る癖がついてしまっている、ということがこの差の原因だろう。これでは、海外勢から「(ユーザー目線の)日本人はいいお客さんだ」と思われても仕方がない気がする。

 言い出したらキリがなさそうなので、これくらいにしておくが、今回紹介した新聞記事を読んで、そんな状況でも日本のメーカーは自分たちの市場を守るために頑張っていることが見て取れたことをプラスに考えていくことにしよう。

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2012年12月 7日 (金)

フリービー・マーケティング

 早いもので、今年も12月。そろそろ年賀状の準備なども始める時期になってしまった。私も「カラープリンターのインクでも買わないと」などと思っていたところ、3日くらい前に新聞に「インクで稼ぐプリンター」という記事が載っていたのを見つけた。

 この新聞記事には「1万円を切るお手頃なプリンターも増えてきたが、インクは5千円前後もする。なぜなのかとメーカーに問い合わせたところ、セイコーエプソンの担当者が、消耗品のインクカートリッジで利益を出すことで本体価格を抑えるビジネスモデルだからです、と答えた」と書かれている。

 確かに、インクジェットのプリンターを購入しても、インクがなければ使えない。だから、プリンターは大幅に割引して売ってもインクカートリッジに割引した価格を上乗せすれば損はない。よく考えたものだ。これだと、たとえ新しいプリンターが売れなくても、古いプリンターを使い続けてもらうだけで儲かる、ということにもなる。

 また、プリンターのメーカー以外(非純正品)の安いインクも売られているが、この新聞記事によると、大手メーカー各社はインクにICチップを入れ、メーカー純正品でないとプリンターが動作しなくなるようにしているらしい。

 このビジネスモデル、調べてみると、英語版Wikipediaの「Printer(プリンター)」の項目の中に載っていた。さらに詳しく見てみると、英語版Wikipediaの「Freebie marketing(フリービー・マーケティング)」という項目の中の「Specific examples(具体例)」にも書かれていた。「Freebie(フリービー)」とは、「景品、無料でもらうもの」という意味だが、プリンターは無料ではない。ただ、実際に作るためのコストを考えると本体だけでは安すぎる値段設定になっていて、これが「フリービー」にあたるようだ。

 この「フリービー・マーケティング」は、他にはゲーム機(ゲーム機本体だけではゲームはできず、実際にはその機種専用のゲームを購入する必要がある)もそれにあたるそうだ。また、MicrosoftのWindowsなども、OSだけだとたいしたことができず、Officeやその他の実用的なソフトは別売りだったりするので、これと似た感じなのかもしれない。

 ところで、プリンターのインクカートリッジを売ることで儲けるビジネスモデルは「ユーザーの囲い込み」という効果もあるようなことが今回紹介した新聞記事に書かれている。実際、プリンターに限らず電化製品の多くは、特定のメーカーのもので全てのものを揃えなければならないようにできているので、そういう風に見えるのかもしれない。

 ただ、「ユーザーの囲い込み」というと、やっぱりApple社の形が究極だと思うのだが、これはプリンターのビジネスモデルとは異なる。実際、Apple社の製品は安くないし、逆に別売り品やアプリなどは高くはなく、iCloudのようなサービスは無料で利用できる。

 こんなことを考えていたら、ふと、最近話題になっている日本の家電メーカーの不振の話を思い出した。話題になっているのは「業績不振」の話だが、結局のところ日本の大手メーカーは「フリービー・マーケティング」のような手法で「ユーザーの囲い込み」を試みたが、(一時的にはうまくいったものの)実際には「囲い込み」に失敗したということなのかもしれない。

 こうやっていろいろと書いてみると、今年の年賀状の印刷で使うインクは新たに買わずに去年のもので済ませよう、という気分になってきた。万が一インクがなくなったら、今度はインクカートリッジが最も安く買える新しい別のプリンターを(メーカーは問わずに)買えばいい。

 おそらく、こんな風にして皆が日本メーカーの製品から離れていったのだろう。

 最後に何かプラス思考になることを、と考えてみたが、とりあえず、『「フリービー・マーケティング」は結局のところ「ユーザーの囲い込み」には繋がらなかった、という点を足がかりに今後何か新しいものが生まれることを期待したい』と書いて今回は終わりにすることにしよう。

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2012年10月 4日 (木)

グリッドロック現象

 昨日、ある新聞で「グリッドロック現象」という聞き慣れない言葉を見かけた。『「超」渋滞現象、震災で初確認』というタイトルで、東日本大震災当日の2011年3月11日に「グリッドロック現象」によって東京都心で同時多発的に渋滞が起こったことがつきとめられた、ということだそうだ。

 東日本大震災当日は、このブログでも書いたが、電車は動いていなかった上に、道路も渋滞で車も身動きが取れないような状況で、私も約3時間半ほど歩いて帰宅したことを今も結構鮮明に記憶している。

 そのときに渋滞が起こった原因とされる「グリッドロック現象」というのは、新聞記事をみると「ある交差点に想定容量を超える自動車が殺到して渋滞が生じ、四方に延びた渋滞の列が別の交差点の通行を妨げることで次々と周辺の交差点が詰まって渋滞が連鎖していく現象」ということだそうだ。

 もう少し具体的に調べてみると、次の絵のように、交差点にいる赤い色の車が交差した道を進もうとする車を遮ってしまい、結果的に全ての車が身動きが取れなくなってしまう状態のことを表しているらしい。

Gridlock

(ちなみに、これはWikimedia commonsからダウンロードしたパブリック・ドメインに帰した知的創作物である。)

 これをみると、確かに災害の混乱で「我れ先に」という感覚で交差点に車が殺到したら、このように車が動かなくなり「グリッドロック現象」が発生しそうな気もするが、実際に東京の都心でこの現象が起こったことを確かめるのは容易ではないだろう。

 新聞記事によると、実際に確かめるために、大震災当日に都心を走っていた約3000台のタクシーに搭載されたGPSのデータを分析したそうだ。その結果、首都高速の交通規制のために一般道に移る際の首都高出口付近から渋滞が広がったことがわかったらしい。

 まあ、結局は大災害のときには車は使わない方がいいということになるのかもしれないが、技術の進歩によって災害時の混乱を緩和させることが可能になるなら嬉しいことだ。このような研究がさらに進むことを期待したい。

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2012年9月30日 (日)

現在ダイエット中

 突然だが、ダイエットというと何を連想するだろうか。例えば、広辞苑には

「美容・健康維持のために食事の量・種類を制限すること」

とある。また、大辞林で見ても同様で

「健康や美容のために、食事の量や種類を制限すること」

と書かれている。まあ、こんな意味なのだろうと納得できなくはない。ただ、かなりアッサリとしか書かれていない印象を受ける。こういっては何だが、広辞苑や大辞林は、ダイエットにはあまり関わりたくないのかもしれない。

 また、Wikipediaのダイエットの項目は、もう少し詳しく述べられているものの、その冒頭には「ウィキペディアは医学的助言を提供しません。」と明記されていて、情報の正確性を保証しないことなどの「医療に関する免責事項」もある。

 ところで、何故こんな言葉の意味を調べたのかというと、私自身が今年のなって太ってしまい、ダイエットをしなければと考えたからだ。具体的には、先月末の時点で、去年よりも約10kgほど体重が増えていた。

 当然急に増えた訳ではない。だいたい今年の4月くらいから体重が増え始めたと思うのだが、忙しさも手伝って運動する時間も減ってしまったうえに、周りから太ったことを指摘されることもなく、そのままほったらかしにしていた結果であった。

 そこで、実は今月に入ってから私もダイエットを実行していた。基本的には自己流で、ご飯の代わりにたくさんもらったジャガイモにしてみたり、肉は食べずに豆腐にしたりしながら、あとは野菜中心の食事にしてカロリーを制限をした、という感じである。

 「体重を減らすため」という目的が広辞苑や大辞林に書かれている「健康」や「美容」といった項目に入るかどうかは定かではないが、辞書に書かれているように食事の量・種類はかなり制限した上に、さらに、太ってしまった体に無理のない範囲で軽い運動を加えた結果、とりあえず先月よりも約6kgほど減ったようである。1ヶ月でかなり減ったようにも見えるが、それだけ太り過ぎだったということだったのだろう。

 ということで、今回は簡単にダイエットの成果について書いてみた。あとは、「ここまできたら、去年の水準まであと4kgほどだから...」と書きたいところだが、これからは減らすことよりもリバウンドに注意しなければならない。ちなみに、リバウンドを広辞苑で調べると

「ダイエットをやめたために、一旦減少した体重が前より増加すること。」

と書かれている。また、大辞林では

「ダイエットを中断した際にみられる体重の増加」

であるが、ともにダイエットの目的を「健康」や「美容」と曖昧にしている割に、リバウンドの結果については「体重の増加」と非常に明確に書かれていることに注意したい。こうやってみると、広辞苑や大辞林も、ダイエットを(やめたり中断したりせずに)行う目的は「体重の増加を防ぐため」と言っているようにも思える。

 一方、私自身の話に置き換えると、無理矢理これまでと同じ調子で食事の量や種類を制限していても長くは続かないのではないか、という気もしている。広辞苑に書かれている意味を考えると、「やめないように」と思ったがゆえに結局続かずに体重が増加してしまう、というのは何とも皮肉な感じがするが、それが現実なのかもしれない。

 いろいろと書いていたら、だらだらと長い文章になってしまったので、そろそろ終わりにする。結局、公になっている情報はダイエットには何の役にもたたないようなので、何とかリバウンドがないような方法を自己責任でこれから試していくことしかなさそうだ。

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2012年7月20日 (金)

「自覚」を広辞苑で調べる

 前回も書いたが、少し立ち止まって考える今の時期。こんなとき、例えば「自覚するべき」などと言うことがある。

 「自覚」は、自分自身でいろいろと反省をした上で今後のことを考えるために必要なことなのだが、単純な言葉だからか、何となく深く考えずに気楽に使ってしまうようなところもあるかもしれない。

 そこで今回は、この「自覚」という言葉をもう少し深く理解するために、辞書を使って調べてみることにした。例えば、広辞苑で「自覚」を調べると

(ア)自分のあり方をわきまえること。自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。「勉強不足を−−する」
(イ)自分で感じとること。

と書かれている。堅苦しい感じの文面だが、例文を「勉強不足を自覚する」としているところなどを見ると、広辞苑のこの項目を書いた人も、「自覚」という言葉を、「勉強不足」などについて反省が必要な場合に使われることを意識しているように思える。

 さらに、この項目に書かれている内容を調べていく。例えば「わきまえる」という言葉を広辞苑で調べると、

・物の道理を十分に知る。よく判断してふるまう。ものの区別を知る。弁別する。

と書かれている。例文には古典の分野からのものも含まれるが、それ以外には「礼儀をわきまえる」「場所柄をわきまえない振舞」などという例文も書かれている。こちらの方は、普段の態度などに関する反省などを意識しているようだが、これも「自覚」という言葉の意味に含まれることに注意したい。

 また、もう少し広辞苑に書かれた内容を理解するためには、もうひとつ別の辞書をみてみるといいかもしれない。例えば、大辞林で「自覚」を調べると

・自分自身の立場・状態・能力などをよく知ること。わきまえること。

とある。広辞苑と同じように見えるがちょっと違うような気もする。例えば、広辞苑には「知ること」の中に「義務・使命」が含まれているが、大辞林の方はそうではないようにも見える。

 この点は、私は「自覚」の意味の中に「義務・使命などを知ること」が含まれている広辞苑の方を支持したい。さらに付け加えると、例えば「義務」を広辞苑で調べると

・自己の立場に応じてしなければならないこと。また、してはならないこと。

となっているが、「自覚」という言葉の意味には、「義務を知る」すなわち「自己の立場に応じてしなければならないことを知る」ことは含まれるべきだと思う。

 前回の話にある「結果」「習慣」と同様に「自覚」という言葉も、いろいろな意味が含まれているにもかかわらず、単語自体は単純で覚えやすいからか、何となく軽い気持ちで使ってしまうことがあることに対する反省の意味もこめて、今回は広辞苑でいろいろと調べてみたつもりである。

 これから夏休みになる学生・生徒などは、せっかく時間があるのだから、こういうときに辞書などで言葉の意味などを深く調べてみるのも悪くないので、是非やってみてほしい。

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