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2011年10月

2011年10月30日 (日)

「単位」の定義

 原発の事故から半年以上たった。事故が起こった当初は「シーベルト」「ベクレル」などの単位がニュースで出るたびに「単位の由来は何だろう?」「その単位は何を基準に決められたのか?」など、いくつも気になることがあったような気がする。しかし、最近ではこれらの単位が当たり前のようにニュースに出てくるからか、そのような疑問もすっかり忘れてしまっていた。

 それを思い出したのは、書店でいつものようにブラッとしながら本棚を眺めていたときに「単位171の新知識」という講談社ブルーバックスシリーズの本が気になったからである。単位の辞書、いった感じの構成になっている本で、それぞれの単位について軽く説明がついているだけなのだが、ちょっとした空き時間の暇つぶしに丁度いい感じだと思って購入してみた。

 この本によると「ベクレル」も「シーベルト」も人物名にちなんで名付けられた単位なのだそうだ。他にも放射能関連では「キュリー」「レントゲン」「グレイ」などの単位が並んでいるが、これらも人物名がそのまま単位の名前になったものである。ただ、「国際単位系の放射能の単位はベクレルですから、ベクレルを使用する方が望ましいです」と書いてあるので、普段のニュースでも「ベクレル」の単位を使っているのだろう。

 また、この本には、放射能関連のみでなく、様々な事柄の「単位」が載っている。例えば、時間の「秒」の単位。何となく素人考えだと、地球の自転や公転が基準になっているような気がするが、そうではない。国際単位系の「1秒」の定義は、この本によると「セシウム133の原子の基底状態における、2つの超微細構造準位の間の遷移に対する放射周期の、91億9263万1770倍の継続時間」なのだそうだ。

 専門家ではないので何を言っているのかさっぱりわからないが、意外に思ったのが「セシウム」が基準になっているところである。最近、ニュースでよく聞くが、基本的に悪者扱いであまりいいイメージがない。別に「1秒」の基準に使われているからというだけでイメージがよくなる訳ではないが、世の中にある物質は、どんなものでも何らかの意味があって存在している、ということを改めて認識させられる。

 他の身近で重要なものとしては、重さ・質量の「kg」の単位。この定義は「国際キログラム原器の質量」となっている。実際の「国際キログラム原器」は白金90%、イリジウム10%の合金製で、1889年の第1回国際度量衡総会で定められたものなのだそうだ。122年も前に定められたせいもあるかもしれないが、こちらの定義はわかりやすい。

 また、広辞苑によると「白金イリジウム」は「極めて固く、膨張率が小さいので、度量衡原器・万年筆ペン先に用いる」とあるように、少しでも変形すると困るものに使われているもののようである。ただ、この「イリジウム」も放射線を出す物質だったような気もする。

 こうやって「単位」の話を見てみると、意外なことに、これまで結構身近なところで人間はセシウムやイリジウムのような物質を利用していることがわかってしまった。「だから何?」と言われてしまうと何も答えようがないが、このような「単位」の定義が、原発事故の影響を受けたりすることはないのだろうか。

 先日ニュースで、2011年10月21日にパリ郊外で開かれた第24回国際度量衡総会において、122年前の「kg」の定義の見直しを行うことが決まった、という記事をみた。この決定は別に事故とは何の関係もないが、どのような物質が基準になるのか、ということを勝手に気にかけている。

 「単位」の定義が変わったところで世の中が変わる訳ではないのだが、こういうものに21世紀の科学・技術にふさわしい何か新しい変化があるのも悪くないような気がする。

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2011年10月26日 (水)

矛盾しない形

 先日、朝日新聞一面下に「永江朗」というフリーライターの方が書いた本の広告が出ていた。広辞苑にある単語を採り上げたエッセイ、という感じでちょっと気になるタイトルだったこともあって、入手して中身を眺めてみた。

 まあ、採り上げている単語は好み問題があると思うので私は特にコメントはしないことにする。ただ、巻末の経歴や主な著書の欄を見たら、この著者がどんな人なのかが気になったため、もう少しこの人の本を読んでみることにした。

 そう思って何となく近くの書店に行って本棚を眺めながら「永江朗」の書いた本を探していたのだが、巻末に紹介されている著書の中で、平凡書新書の「書いて稼ぐ技術」という本が見当たらなかった。不思議なもので、こういうときには、その本に何が書いてあるのか気になってしょうがない。

 最近はインターネットのAmazonという便利なものがあるので、早速注文して読んでみることにした。タイトルもそうだが、目次を見ても「(フリー)ライターとして生計を立てていくノウハウ」が書かれているように見える。実際にそういうことが書かれているのだが、その中に著者自身の性格や生活感がにじみ出ている記述が随所にあり、この著者のことをストレートに知ることができる本であることがわかった。

 例えば、最初の章には『(この著者が)ライターになったのは偶然です』『椎名(誠)さんが「永江さんは明るいのがいいよね」といいました』『何人かの編集者から「いつも暇そうにしてますね」「なんだか呑気ですね」といわれたことがあります。表情にしまりがないことかな、思っていました。』などと書いてある。

 このブログを読んでいる皆様の中に、20代の頃の私のことを知っている人は少ないかもしれないが、私も今の職場にいるのは本当に偶然が重なった結果だったり、あるいは、顔の表情から「明るいですね」とか「呑気そうですね」「悩みがなさそうですね」などと若い頃はよく言われていたりしていた。

 そんなことから、この人が『ところが、私は自分を明るいと思ったことがなかった』と綴っている気持ちも何となく理解できる、と勝手に思ったりなど、著者がどんな人か想像しながら読み進めていった。

 内容は、「フリーライターの仕事は無節操」などと最初の方に書きながらも、実際には、筋をきちんと通してやってきたから、(この著者は)フリーライターとして食っていくことができているのだ、ということがわかってくる、という構成になっているような気がする。例えば、

・「やりたいこと」より「できること」が鉄則
・「好き」なことと「書ける」ことは違う

ということは、この本全体を通して一貫したポリシーになっていて、全ての記述はこれに矛盾しない形で書かれているようである。そうした記述の中には、

・いやな仕事は断る

ということも含まれていたりする。これは、「勝間和代」の本などにも似た話があったような気がするが、世間では勘違いしている人が結構多いようにも見受けられる。そういうことを意識してか、この本にはさらに

・「やりたいことではないこと」と「やりたくないこと」は違う
・...といっても、やりたくない仕事はあまりありません

などとも書かれている。実際に、この著者は「できること」「書けること」はやる、というポリシーの基で様々な仕事をこなしているに違いない。そういう行動ができる人が言うから、これがきちんと意味のある言葉になるのだと思う。

 ようするに、『「やりたいこと」より「できること」が鉄則』『「好き」なことと「書ける」ことは違う』ということと矛盾しない形で「断る」から筋が通るし、「断る」ことの意味も納得できるに違いない。

 ただ、面と向かって「断る」というのは勇気がいる。もしかしたら、この著者も実は断りにくい仕事を渋々やったことがたくさんあって、そういう経験から「できること」「書けること」と「断るべきこと」を矛盾なく区別することができるようになったのだろう。

 何だか、最初の章の話だけでいろいろと書いてしまった。ただ、この人は「第一章がだめな本は、全部だめ」とも言っているので、それと矛盾しないように、この本の第一章もかなり力を入れて書いたに違いない。そう考えると、この著者のことを知るために最初の第一章を深く考察したのは正解たっだと思う。

 また、それ以降の章も、例えばアイディアひねり出す際に「書店で本棚を眺める」だとか、「ネット上の情報を鵜呑みにしない」「(編集者は)著者に難癖をつけているのではない」など、普通の人でも参考になる行動や助言も多い。

 こういった著者自身のこだわりやポリシーなどが書かれている本には、押し付けがましく感じてしまうものも多いが、この本はそれを意識してか、文のほとんどは「です・ます調」になっている。こうすることで、内容を何となく自然に理解できるように工夫したのかもしれない。

 私自身はこの本に書かれているような仕事をする意志はない。ただ、自分の考えを主張するために、この本の内容を少し参考にしてみるのも悪くないような気がする。

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2011年10月22日 (土)

信号がある危険な交差点

 おとといの夜、買い物の帰りに近所の道を歩いていた。交差点を曲がって10mくらい進んだところで、後ろから「ドン」「ガシャ」という大きな音が聞こえたので振り返ってみると、交差点でぶつかった2台の車が、その勢いで歩道の方にゆっくり向かってきていた。

 幸いにも、車道と歩道を分ける白いポールがあったため、歩道まで乗り上げることなく車は止まった。運転手も目立った外傷はなかったのか、車から降りてきたのでホッと一息ついたが、すぐに周りの住民の方々が「何事か?」といった表情で集まってきた。後ろでぶつかったので直接見た訳ではないのだが、集まった人達の話などを合わせると、片方の車が赤信号で停まらずに交差点に出てしまったことが原因のようである。

 最初のうちは、私も集まった方々と同じように一歩引いた感じで見ていたのだが、よくよく考えてみると、10秒くらい前に私が歩いていたところに車が突っ込んできたのだから、他人事ではない。

 いろいろと話を聞いてみると、その交差点は以前は信号がなく、事故が多発していた地点らしい。私が引っ越してきたときには既に信号はあったが、それでも事故は起こる、と言っていた。

 私の住んでいる地域は、近くの国道は交通量が多いものの、ちょっと脇の道は交通量が少なく、普段は結構静かな雰囲気がある。そんな郊外の典型的な住宅街の区画整理された道なので、多くの交差点には信号がない。

 そんな中に、信号機が設置されている交差点が数カ所ある。正直なところ、普段は「何で人も車もあまり通らないところに信号があるのか?」と思いながら、仕方なく信号に従っていた、という感じだったのだが、そういう交差点も同様に事故が多い地点なのかもしれない。

 今のところに引っ越してきたのは約2年前で、それ以前の信号がなかったときのことを私は知らない。それに、これまで大きな事故に遭遇したこともないので、私は当然のように「信号のある交差点は安全」「信号のないところは注意しよう」という意識を持っていたが、少し考え直す必要があるようだ。

 実際、こういった住宅街の交差点では「事故が何度もあって危険な交差点だから信号をつけた」という地点が多いのだろう。そういうところでは、信号をつけただけで安全が保障される訳ではないに違いない。

 事故の話に戻るが、今回の事故では、実は自転車に乗って信号待ちをしていた方がいた。その方は、特に何も考えずに前を見ていたら急に車が横から現れた、という感じの話をしていた。それでも、身体は歩道の白いポールの内側に入っていたため、自転車の前輪が歪むくらいの被害で済んだようだが、自転車の場合は車道側で信号待ちをすることもあるだろうから、こういった事故に巻き込まれないように日頃から注意する必要がありそうだ。

 私自身は10m程度離れたところにいたとはいえ、自分のいる歩道に車が向かってきているにもかかわらず、「何が起こったのか?」と思いながら、逃げる訳でもなく数秒程度足が止まって動けなかった。車のスピードがそれほど出ていなかったのも幸いしただろうが、こういった交差点は信号があるが故に、車が見えていても「こんなはずはないだろう」といったような油断も出てしまう。

 これまで、ジョギングなどの際にも「信号があるから危険が少ないだろう」と考えて、信号があるところを通るようにしていた。しかし、交通量の少ないところに不自然な形で信号があるところは、むしろ避けるべきなのかもしれない。事故を起こさないだけでなく、事故に巻き込まれないような注意もしながら、危険が少ない道をもう一度考え直してみることにしよう。

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2011年10月18日 (火)

本(ビセキの話)の紹介

 書店に行って本棚を眺めながらブラッとしていたら、ふと気になった本があった。「秋へギアチェンジ」で秋になって読書もいいと書いたこともあるので、今回は読んでみた本の紹介をすることにした。

 また数学の話になるが、「微分・積分を知らずに経営を語るな」という、何となく読者に何かを訴えている感じ(というか、何となく押し付けがましい感じ)の、如何にもPHP新書の雰囲気が出ているタイトルの本である。そんな第一印象を持ったこの本を今回採り上げたのは、実は私も「微分・積分」の思考法を使うことがあるので、その考え方を紹介したい、という理由からである。

 例えば、昨年ブログを始めたばかりの頃に書いた「意欲の傾き」という記事では、「意欲」という高低の程度を数値で表すことが難しいことは、「意欲があるか、ないか」の2者択一ではなく、「意欲の傾きがプラスかマイナスか」と考えてみるといい、といったことを書いた。

 「意欲がないときにでも、何もしないよりはマシだろう」という程度のことを続けていれば、意欲の傾きは(ほんの少しだが)プラスになるので、右肩上がりの状態を保つことができる、という趣旨なのだが、これは「微分」がプラスなら増加する、ということを基にした考え方をしている。

 ただ、「傾き」という言葉は一般には使われていないようなので、わかりにくかったかもしれない。実際、今回紹介する本の最初の章に「微分・積分」の簡単な説明が載っているが、そこに「数学の世界では"傾き"といいますが、ビジネスではあまり使わない言葉なので、本書では"伸び"と表現します」という文章があった。(ということで、その記事のタイトルを「意欲の傾き」から「意欲の傾き(伸び)」に変更しました)

 本には、その次に「あなたのモチベーションを微分する」という話がある。内容は、グラフを使って結構本格的に「微分」の話をしていたり、モチベーションが上がったり下がったりしている場合を考えているので、私が書いた「右肩上がりの状態を保つ」という話とは多少異なるが、やっぱり意欲やモチベーションは「傾き(伸び)」を使って考えるのがいいようである。

 ところで、実際の本の中身は、「経営を語るな」というタイトルにあるように、「微分がわかれば利益が上がる」「積分がわかれば在庫が減る」など、経営判断の際に「微分・積分」の考え方を使うのがいい、という趣旨の話が書かれている。

 その中で、一つ不満に思った点を先に書くと、本文中に「微分」や「積分」の数式や記号がまったく出てこないのはちょっと残念な気がした。こういった「新書」の本では、この本だけでなく、以前紹介した「ものつくり敗戦」の本も同様に、難解に感じさせてしまう数式や記号は極力使わないようにしているのだろう。

 ただ、この本の著者は、冒頭で「微分・積分が数学の中では一番易しい」とか「微分・積分は、天才たちが普通の人のために、世の中の現象を易しくわかりやすく説明したものです」と書いているので、もう少し踏み込んで「微分・積分の数式や記号も天才たちがわかりやすくしてくれました」などと言って欲しい気がする。

 一方、最も印象に残ったところは、本の真ん中あたりのページにある「微分・積分マーケティング」の章の冒頭の部分である。そこには、日本のビジネスの現場における数学的な思考の扱われ方が書いてあり、それを踏まえて「マーケティングに軽くビセキ(微積)のメスを入れましょう」という文章がある。

 以前紹介した「ものつくり敗戦」の本では、この辺りのことは多少遠慮気味に書かれていたような気がするが、この本には「微分・積分に代表される数学なんて学者と学生のお遊びだろう」「方程式なんかでビジネスが決まったら仕事なんて面白くない」「買う人の気持ちが数学で証明できるか」「売れてナンボだろう。能書きを言う前に体で示せ」などのようなことが「大きな声で」言われていて数学や数学的発想(論理性)が排除されている、という事実が誰でもわかる表現で書かれている。

 確かに「能書き」だけで実際に行動しなければ売り上げには結びつかないだろう。ただ、合理的な「能書き」と現実的な「行動」がミックスされれば、いくら数学を批判するような人でも文句はないに違いない。そう考えると、「マーケティングに軽くビセキ(微積)のメスを入れましょう」という、やんわりとした言い方は、数学を批判している人に「闇雲に行動しても無駄が多すぎて駄目」と言うだけでなく、能書きばかりで行動が伴わない人に対しても「あくまでも行動が主で、それに軽く数学的な発想を加える形にしないと駄目」と忠告しているような気もする。

 例えば、前回の「冬の電力需用量は?」は、簡単な比例の関係を使った計算だが、この本の考え方に近いと思っている。「夏の節電目標」の記事もそうだが、理屈っぽくならない程度に軽く計算をしてから考察すると、(どの程度の節電が必要かなどの)具体的なイメージもわきやすく、「実際に行動(節電)してみようかな」という気持ちになってくるに違いない、と思っているのは私だけだろうか。

 当然、万能な方法など存在しないので、計算したものが現実とズレることはある。ただ、「それは例外だ」と考えて、数学を使った考察を続けていけばトータルでいい結果になる、という趣旨のことも、この本には書かれているようだ。これは、「数学に基づく方法」には誤差(ズレ)がつきもの、という考え方に非常に近い。細かいことは気にせずに、全体を考える。これが数学的な考え方を身につける近道なのかもしれない。

 本の全体的な内容は「数学(微分積分)を使って説明すると、こうなる」という説明が淡々と書いてある、という感じで、いわゆる啓蒙書のたぐいのものとは異なる。そういう意味で、この本は、数学の話の割には、あっさりしていて読みやすいのではないかと思う。

 ただ、これに限らず、数学のことが書かれた本の多くは、「落ち」もなければ、「ミステリー」も何もないため、読んでも面白くないと感じるかもしれない。私も、その気持ちはよくわかるが、たまにはそういった本に触れてみるのも悪くない、と思ってほしい。

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2011年10月14日 (金)

冬の電力需用量は?

 先日、コメントに載せたのだが、今年の8月は電力需用量がかなり減って、節電効果が大きく現れたことが数値で示されていた。「夏の節電の報告」を書いたときには今年の7月までのデータしかなかったので「中途半端な結果」と書いてしまったが、その言葉は訂正する必要がある。

 「節電もやっぱりやれば効果が現れる」ということがわかったところで、早速だが冬の電力について少し考察してみることにした。まずは、昨年の2010年10月から2011年3月までの6ヶ月間の東京電力管内従量電灯の電力需用量を調べてみた。


2010年10月従量電灯: 5,032,431,000kWh
2010年11月従量電灯: 5,089,986,000kWh
2010年12月従量電灯: 5,534,505,000kWh
2011年 1月従量電灯: 7,882,938,000kWh
2011年 2月従量電灯: 7,235,421,000kWh
2011年 3月従量電灯: 6,317,979,000kWh


データは、前と同じ「電気事業連合会」によるものである。1月と2月が突出している上に、全体的に見ても、4月から9月まで(春から夏)よりも高いことが数値を見るとよくわかる。比較のために、とりあえず昨年2010年8月の数値を引用する。


2010年8月従量電灯: 6,817,956,000kWh


これを見ると、冬のピーク(1月)の電力需要量は、8月よりも約15.6%アップしていることになる。

 この冬がどうなるかはわからないが、単純に昨年と同様のアップ率だと仮定して計算してみることにする。今年の8月の数値は


2011年8月従量電灯: 5,576,860,000kWh


だから、15.6%アップした数値は


2011年8月×1.156 = 6,446,850,160 kWh


となる。よく見ると震災直後の計画停電が実施された2011年3月を上回っている。これは、この夏と同程度の節電を行ったとしても、1月には、計画停電があった震災直後より電力需用量が高くなる可能性がある、ということを示唆する数値であろう。電力供給量の方は震災直後と比べると改善されているはずだが、それでも計画停電が実施されずに済む保証はないようである。

 あと、もう一つ別の計算をしてみることにする。4月にブログで書いた際に計算した「昨年8月×0.8」(20%削減)の数値が、今年の8月の数値とかなり近かったので、今回も同様に「1月×0.8」を計算してみた。


2011年1月×0.8 = 6,306,350,400 kWh


これだと、震災直後の2011年3月より、わずかだが少なくなる。しかし、安心できる数値とはいえない。こうやって計算してみると、冬は夏以上の節電意識が必要だ、ということが何となく見えてきた。

 さらに、今回は東京電力管内の数値だけで計算したが、実際には東北地方の寒冷地などで生活するために必要な電力も東京電力から融通しなければならなくなる可能性も考える必要があるだろう。それがどの程度なのか予想がつかなかったので、今回は採り上げなかったが、冬の節電は夏以上に助け合いの精神も重要になるかもしれない。

 夏も節電の努力をしたことだし、今度の冬も、出来るだけ保温効果が高い服を着たり、部屋にいる時も足や手先を冷やさないようにする工夫をしながら、必要なとき以外にはあまり暖房に頼らずに済すませられるような対策を今から考えることにしよう。

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2011年10月10日 (月)

Appleのプライバシーポリシー

 いよいよ今週10月12日から iCloud が始まる。また、先週は新製品 iPhone 4S 発表の次の日に前CEOの Steve Jobs 氏の訃報が報道されるなど、Apple という一つの企業だけの話かもしれないが、何となく時代の変わり目を予感させる出来事が続いているようで、複雑な思いがする。

 そんな中、今更ながらインターネットを介してデータをやり取りするところに、まだ一抹の不安が残ったままになっている。これまでブログで、google のプライバシー・ポリシーの話をしたり、辞書で調べたりしたが、それだけでは不安は解消されなかったので、今回は Apple の「プライバシーポリシー」を読んでみることにした。

 その日本語訳を見ると、まず冒頭の部分に


・「お客様のプライバシーはアップルにとって重要です。そのため、当社は、当社がお客様の情報をどのように収集、利用、開示、移転および保存するのかについて規定するプライバシーポリシーを作成しました。」


と書いてある。前にブログで google の「プライバシーポリシー」について愚痴っぽいことを書いたが、Apple の方は丁寧な言い回しなので少し安心した。

 ここで、Apple のプライバシーポリシーの中で使われている「お客様」とは、英語の原文の「you」(すなわち、文章を読んでいる一般のユーザー)の訳である。以前 google の方を調べたときは「you」という単語を、単に「ユーザー」と訳していた。

 また、google のプライバシーポリシーの日本語訳で「様」と敬称がついているのは「広告主様」「サイト運営者様」と、何らかの問題を報告した「ご本人様」の3者。まあ、文章を訳した日本の社員に限った話かもしれないが、こういった部分に Apple と google の姿勢の違いが現れているような気がする。

 Apple の方には、その次に「個人情報」の定義が次のように書かれている。


・「個人情報とは、特定の個人を特定するためまたは特定の個人に接触するために利用できるデータをいいます。」


何でもかんでも google と比べるのはどうか、という意見もあるかもしれないが、やっぱり比べてみたくなる。google の方をみると、


・「個人情報とは、ユーザーから Google に提供される個人を特定できる情報です。」


とある。同じように見えるかもしれないが、google では、ユーザーから提供されたものではない「個人を特定できる情報」は個人情報として扱われていない、と読むこともできる。さらに、英語の原文を見ると「"Personal information" is information that you provide to us ......」となっていて、直訳すると、「個人情報」は、ユーザー(=you)がgoogle(=us)に提供する(=provide) ...... の情報、となる。例えば、たまたま google の検索に引っかかった情報は、ユーザーが google に直接提供した情報ではないので、google では「個人情報」として扱わない、ということになるのだろう。

 一方、Apple の方は「Personal information is data that can be used to .......」となっていて、英語の原文でも「誰がどこへ(あるいは、どうやって)提供したかに関係なく」条件をみたす全てのものを「個人情報」として扱うことになっている。

 ここまでの数行を見ただけでも、Apple は google とは異なったポリシーを持っていることが予想できるが、実際の本文の内容も、Apple の方は具体的で、曖昧な表現は使っていないようにみえる。さらに、もう一つの違いは「Cookie(クッキー)」に関する部分で、Appleの方は、かなりのスペースを割いて詳細に説明している。

 google のプライバシーポリシーを見たときには、入力した情報の共有に関する話ばかりが気になっていたこともあるが、もう一度見直してみても「Cookie」の話は「情報を収集させて頂く場合がある」という項目の一つとしてちょっと載っているだけ。また、その文面も以前ブログで書いた通り曖昧な感じで、どうも釈然としない。

 一方、Apple の方には


・「Cookieおよびその他の技術によって収集された情報を非個人情報として取り扱います。ただし、インターネットプロトコル(IP)アドレスまたは類似の識別子が管轄法により個人情報とみなされる場合には、当社は、これらの識別子も個人情報として取り扱います。」


と、Cookieなどの技術により情報が収集されることと、その情報の扱い方が具体的に書いてある。技術的なことはよくわからないが、収集する情報を「個人情報」と「非個人情報」に区別して、「個人情報」にあたるものは保護しているようである。

 google の文面には、このような区別はなく、収集されたものは中身を問わず全て「非個人情報」として扱っているように見える。もう少し深読みすると、先に書いた「個人情報」の定義の違いは、このあたりの情報の扱い方にも関係しているかもしれない。

 Cookieなどによる情報は、ユーザーのコンピュータから直接送られるようだが、それはユーザー自身の意思で提供するものではないようである。この事実を利用して、google の方(英語の原文)では「個人情報」の定義の that 以下を「you」という主語をつけて能動態の文章にすることで、得られたものを「非個人情報」として扱えるようにした、という見方もできそうだ。

 何だか google の話が多くなってしまったが、Apple の方は素人がツッコミを入れられそうな記述は特になさそうなので、私自身がその意味を理解するためには google と比較するしかなかった、ということでもある。Apple でも集めた情報をいろいろと利用しているに違いないが、プライバシーポリシーを読んだ限りでは、Apple の方が情報の利用や扱いに対して誠実なようである。

 インターネットを利用する以上、ある程度の情報がネット上に出てしまうことは仕方がないことかもしれない。ただ、その情報が知らないところで一人歩きしてしまうことがないように気を遣う必要はあるはずだ、と常々考えている。Apple のものが完璧だとは言わないが、その考えに近いようだ、という事実がわかっただけでも以前よりは安心感が増してくる。

 まだ iCloud は始まっていないが、このプライバシーポリシーは iCloud にも適用されるだろう。ただ、それでも結局は実際に利用する側のモラルも重要な要素となるに違いない。iCloud は、単に目新しいから、というだけでなく、節度を保って利用するユーザーが安心して使える環境、という意味でも、これまでのものとは違う新しいもの、と言えるような存在になってほしい。

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追伸:
Apple とその製品のファンの1人として、Steve Jobs氏の訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。

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2011年10月 6日 (木)

15000を超えました

 おととい、ブログのカウンター数が「15000」を超えた。以前、10000を超えたと書いた4月29日の「「キリ」の善し悪し」から5ヶ月とちょっと、ということだから、毎月約1000ずつ数値が増えていったことになる。

 昨年後半にブログを始めたばかりの頃の数値の伸びについて、昨年12月9日の「数字は正直」の記事に書いたが、この頃はちょっと覗いてみようという程度で見に来た人も多かったと思う。さすがに最近はそのときほどの伸びではないが、それでも4日おきのブログ更新のたびに確実にカウンター数が増えていることを実感できる。(読んでくださっている皆様、ありがとうございます。)

 ここ1ヶ月は、海外出張などを含めて仕事が忙しかったこともあり、ブログの内容も、旅行や出張の報告、季節の変わり目に関すること、辞書で調べたことなど直接書いた程度という内容が多く、ちょっと物足りない感じもあるかもしれない。しかし、10000から15000までの間の5ヶ月間を通してみて見ると、「物を一気にリフレッシュ」してからインターネットの話をしてみたり、「正17角形の作図と本の紹介」や「数学に基づく方法」で数学の話題をしてみたり、など話題の幅を少し拡げることができたような気がする。

 また、1月に「今年の目標」に少し書いたが、そのときの気持ちも忘れずに、新しいものにも意識を向けて文章を書いているつもりでいる。実際にそういった目が養われているかどうかは定かではないが、去年までは新しいものに興味があまりなかった、ということを考えると、以前よりは良くなっていると思いたい。

 ただ、そうは言っても、「新しいもの」について、のカテゴリーを見直してみると、内容的にはiPod touchやインターネット、WiFiの話題などがほとんどで、何となく偏りがあるようだ。私のニュースの見方が悪いのかもしれないが、最近は、自然災害、原発、円高など、あまり明るい話題がなかったりするのも残念な気もする。しかし、「冬来りなば春遠うからじ」という言葉もある。それに、歴史的に見ても、これだけのことが重なって起こるのは非常に珍しいことだろう。そういう意味で、これらのニュースも今後「新しい現象」が起こる前触れだと信じたい。

 一方、肝心の文章の方だが、内容にムラがあって、読んで頂いてる皆様に常に喜んでもらえる文章が書けている訳ではないかもしれない。ただ、折角文章を書いていることもあるので、私自身が書ける文章の幅が拡がれば、と思いながら「忙しいとき」「時間のゆとりがあるとき」「何か思いついたとき」「何も思いつかなかったとき」など、いろいろな状況でどんな文章ができるのか、と結構楽しんでいる部分も正直なところあった。

 例えば夏休みの間に書いた「数学を色に例えると」のときなどは、最初は何も思いつかなかったので、何となくパソコンに向かってキーボードを打っていたのだが、色と写真の風景をずっと見ているうちに、何となく数学の風景のことを思いついて、気がついたらそれらしい文章ができていた、という感じだった。タイトルを見ると、最初に文章を書き始めたときには風景のことは考えていなかった、ということがわかるかもしれない。

 まあ、当然何も思いつかなかったときには、結局は駄文しか書けなかった、ということもよくある。そういった文章もそのままブログに載せているため、内容にムラが出てしまうのだが、個人的には、これも私のブログの特徴の一つだと考えている。また、どのような状況のときにでも、そのときの気分が伝わるような文章になるよう努力している、ということで、大目に見て頂けたら幸いである。

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2011年10月 2日 (日)

「読書」を調べると

 10月に入り、ようやく気温も落ち着いて秋が近づいてきたことが実感できるようになってきた。先日も「秋へギアチェンジ」の記事でいろいろと書いたが、今回はその中で「読書」について少し調べてみることにした。

 いつものように、広辞苑で「読書」の項目を見てみる。意味は非常にシンプルで

・書物を読むこと

と書いてあるだけ。また、「読書」で始まる用語がその周りにあるが、例えば皇室の儀式だったり中国の故事に現れる言葉だったり、理系人間の私にとっては正直なところ馴染みがあまりないものばかり。勉強にはなるが、私にとっては少し難解に感じる。

 そんな中、パッと見てすぐに解ったことは、「読書」という言葉の読み方。私はこれまで「どくしょ」と何の疑いもなく読んでいたが、実は最初が濁らない「とくしょ」という読み方もあるようである。

 濁らない「とくしょ」の項目には皇室の儀式に関連する言葉などが並んでいて、その後に「どくしょ」の意味が書いてある。意味が非常にシンプルにしか書かれてないので正確なところはわからないが、これをみると「皇室の儀式」など伝統的な行事などでは「とくしょ」という読み方が使われているのだろう、ということは言えるかもしれない。

 難解なものだけみて終わるのもよくないので、今度は「読む」の意味を調べてみた。こちらには「数をかぞえる」「声を出して唱える」「意味を解いていく(解釈する)」「講ずる(読み聞かせる)」「さとる」「囲碁・将棋などの手を考える」などが挙げられていて、面白いことは書かれていないが納得できることばかりで安心できる。

 一方、これもいつものように英英辞典(OALD8)を開いてみる。こちらの方は「reading」が「読書」にあたると思っているのだが、そこに書かれている意味は広辞苑のものよりも幅広いようだ。簡単に羅列してみると「activity=いわゆる読書」「books/articles=読む本や記事」「way of understanding=本や状況の解釈」「measurement=尺度」「event=読書会」「from Bible=聖書の項目」「in parliament=議会審議の手続き」といったものが並んでいる。

 東洋と西洋の「文化の違い」が辞書にはっきり現れている感じで興味深い。日本では「読書」は読む行為そのものだけを指しているのに対して、英語の「reading」は読む行為だけでなく、読む文章そのものや読んだ結果として得られるもの全てを一つの言葉で表しているようである。

 どちらの方がいいのかはわからない。ただ、こうして比較すると、例えば、日本で「読書の習慣をつける」というと単に書物を読む行為の習慣をつけることを意味するが、英語で同じことを言ったときには、「読んだ本や文章から得られるものを身につける癖をつける」というように、もう少し深い意味になるのかもしれない。

 「読書の秋」ということで「読書」という言葉を調べたが、非常に勉強になった気がする。何の本を読むかによって異なるかもしれないが、折角「読書」をするなら、単に文章を読むだけでなく、文章そのものや読んだ結果得られるものを考えながら「reading」するのもいいかもしれない。

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